銀太郎広告アリ全ページ
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プロローグ 日曜日の夜九時。 大都心の西新宿五丁目界隈といえども、さすがに人通りはなく、静寂な夜が訪れている。j・union研究所の事務所は、新宿警察署から大久保駅方面に抜ける路地にある。その事務所のソファーに、深々と座り込んだミス・ユニオンの気分は、周囲の静寂にもかかわらず高まりつつあった。毎週欠かさずチェックしているTBSテレビのゴールデン番組『サラリーマン金太郎』が始まったからである。 ミス・ユニオンは事務所に一人きりということもあって、すっかりリラックスした様子であぐらをかき、手には好物の焼き栗。しかも、食べるのに何の苦労もない「皮むき」の天津甘栗の大袋である。テーブル上にはロングの缶ビールが用意されている。『金ちゃん』の正義感あふれる痛快サラリーマン物語に、元来が単純な気性のミス・ユニオンは、すっかりはまっているのである。とはいえ、多少のOL経験もあるミス・ユニオンとしては、 「でも、所詮はテレビドラマね。現実のサラリーマンには出来やしないわよ」缶ビールを左手に、右手に甘栗を持ちながら、批評してみたくもなるのだった。 そんなミス・ユニオンの独り言が聞こえたかのように、 「そんなことはないよ」 事務所のドアを開ける音と共に、聴きなれたいつもの声が返ってきた。 [j・union研究所] 労働組合の活動を外部から支援するために設立された民間の研究機関。従来の労働組合活動は経済学的・労働法学的観点からのみ捉えられていたが、そこに新たな視点として経営学的・心理学的視点からも組織や活動を捉えていくことを提言する。それによって暗く・辛く・嫌々の組合活動から、明るく・楽しく・元気よくやっていく組合役員のためのリーダーシップを提唱している。 「あら、ドクター。お帰りなさい。早かったですね」ミス・ユニオンが驚いて答えた。 「予定していた伊丹からの帰りの飛行機、一便前のものに乗れたのでな」 ドクター・レイバーは笑みを浮かべながら答えた。ドクターは、今日は大阪市内で、午後一時から五時までの組合役員研修をこなしていたのだ。 「ドクター、『そんなことはないよ』って、今おっしゃいましたが、じゃあ、『サラリーマン金太郎』のような人が、現実にいるとおっしゃるんですか?」少し憤慨しているような口調で、ミス・ユニオンはドクター・レイバーにたずねた。 「君もよく知っている『銀ちゃん』だよ」 「あの銀ちゃんが? ウソー! 本当に?」ミス・ユニオンは驚いた。 『銀ちゃん』とは、ミス・ユニオンもよく知っている全昭和食品労働組合栃木支部で執行委員を務めている吉川銀太郎のことである。同労組の新任支部執行委員研修は、毎年ドクターが一泊二日で担当していた。銀太郎は教育担当中央執行委員でもあり、ミス・ユニオンとは顔見知りの一人である。中央執行委員会への出席で上京してきた折などに時々事務所にも顔を出し、ミス・ユニオンも銀太郎の飾らない気さくな人柄に、すっかり友達気分で『銀ちゃん』と呼んでいた。何よりも銀太郎が時々届けてくれるアイスクリーム券が彼女の心を射止めていた。 「『現実は、小説よりも奇なり』というけど、本当だよ。『サラリーマン金太郎』よりも、すごいと思うよ」ドクター・レイバーは確信に満ちた様子で言うのである。 「銀ちゃんの話をぜひ聞かせてくださいよ、ドクター・レイバー」ミス・ユニオンの関心は、もはやテレビから完全に離れていた。 「じゃあ、予定より一時間早く帰れたことだし、甘栗を半分くれることを条件に、話すとするかな」 甘栗に手を伸ばしながら、ドクター・レイバーはソファーに腰掛けた。

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